黄バイエルを終了したのが何年生だったか、はっきりと覚えていませんが
曖昧な記憶を辿りながら書いていきたいと思います。
多分、小学2年生の時にはブルグミュラー25の練習曲を弾いていたと思います。
同じ頃、ハノンやツェルニー100番の練習曲も始めていたかもしれません。
この頃、カワイの音楽コンクールに参加しました。人生初のコンクールです。
AコースとBコースがあって、私はBコースで参加しました。
コンクールの課題曲は、チャイコフスキーの子供のためのアルバムより「ポルカ」という曲でした。当時の私には、とても難しい曲でした。臨時記号が多くて、譜読みが大変だったと思います。まだ指の力も弱く、他の子に比べて、ゆっくりのテンポでしか弾けなかったようです。
出場順ですが、私が1番でした( ̄▽ ̄;)当時から私は同じ学年の子に比べ体が小さかったせいか、弾き終わってお辞儀をするだけで上等という感じでした(^_^;)
私の両親が、私の演奏の音量が小さかったことが気になったようで、そのことを先生に訊いていました。先生は「それでいいんですよ」と答えていたらしいです。
初めてのコンクールは、賞があることも知らずに参加しましたし(^_^;)当然、この時は何も賞をいただけなかったのですが、よい経験になったのかなと思っています。
Aコースの人たちは、長い曲(古典派ソナタくらいかな?)を立派に弾いていたので、帰り際に母と「あの人たち、すごいね!上手だったね!」と話したことを覚えています。
それからも何回か、このコンクールに参加しました。
私は田舎でのんびり暮らしていたこともあり、ピアノは楽しんで弾いていたものの、そこまで練習熱心というわけではありませんでした。最近の上手な子どもたちに比べると、かなり遅い進度だったと思います。
小学3年生の夏の発表会で、ブルグミュラー25の練習曲の中の「貴婦人の乗馬」を弾きました。それからソナチネアルバムに入ったと思います。
ただ、この辺りから、新しい先生に変わり、1曲にかける時間が長くなったような感じでした。学校生活も段々忙しくなり、友達との関係で悩んだり、家の引っ越しがあったりと、なかなかピアノの練習も身が入らない時期でもありました。
練習時間も1日平均して30分くらいだったかもしれません。日曜日に遊び弾きも合わせて2時間も弾くと「今日はすごく練習したなあ」と自分で感心して時計を眺めていました(^_^;)
学校の宿題などで忙しくて練習できない日もありましたが、私の母は練習のことについて一言も言ってきませんでした。母は家のことで忙しかったので、それどころではなかったような感じです。
小学6年生の発表会で(私の希望で)「エリーゼのために」を弾きました。
これも、今の時代からしてみれば、かなり遅い方なのかな?
一生懸命弾いたのですが、近所の幼馴染の子のお母さんが、「あそこは、あんなに音を出さない方がいい」と私の母に言っていたことが忘れられずに覚えています( ̄▽ ̄;)
子供ながらにも、先生でもないくせに、いらんこと言わんでよ!と思っていました(^_^;)
6年生の終わり頃、また新しい先生(K先生)に変わりました。音楽教室なので、よく先生が変わるんですよね(^_^;)
この時、出会った先生は、今までの先生と何か違う感じがしました。
それまで ツェルニー は100番の練習曲をしていましたが、30番の練習曲をやることになりました。ハノン、 ツェルニー 30番、ソナチネアルバムという組み合わせでした。
それからは割と早くマルを貰えるようになり、聴音やソルフェージュ視唱も始まりました。
聴音は、すごく楽しかったです。ソルフェージュの歌をうたうことも楽しみでした。
この先生いいなぁと思っていたのですが、悲しいことに、K先生とはすぐお別れすることになりました。
K先生が習っていた先生(T先生)を紹介され、中学生からT先生のご自宅での個人レッスンに通うことになりました。K先生からは最後にバッハのインベンションとシンフォニアの楽譜のプレゼントをいただきました。
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